あざな悠良のよもやま話

備忘録を兼ねていろいろな情報を発信していきます。

積読の何がそんなにいけないのか(いや、いけなくない)

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父が製本業を生業としていたおかげで、小さい頃から本に囲まれて暮らしてきたせいか、病的なまでの本好きとして成長した私。

 

本を愛する者、またその周囲にいる者の永遠のテーマと言えば、やはり「積読問題」ではなかろうか。

 

かく言う私も積読をしてしまうタイプだ。

 

仮に「積読家」とでも呼んでおこう。

 

しかし、一積読家として声を大にして言いたい。

 

そもそも積読とはそんなに悪いことなのか、と。

 

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積読は妙に悪の代名詞のような扱い方をされているふしがある。

 

それは、試しに「積読」で検索をかけてみると、「減らし方」や「解消」といった単語が並ぶことでも想像できる。

 

世の中は、積読は無くさなければならないものとして認識しているのが多数派であるようなのだ。

 

しかし、積読家自身は、自発的に積読を解消しなければならないものだと思っているのだろうか?

 

私はNOだ。

 

だって、考えていただきたい。

 

読み切れないほどの本がそこにある。

 

それは、書店で自らが心惹かれて購入してきたものだ。

 

甘党にとってのスイーツが目の前に山と積まれている状態、それが本好きにとっての積読だ。

 

これを天国と言わずして何と言う。

 

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つまり、積読イコール悪という図式は、積読家以外の外部からの圧力によるものであると推察される。

 

確かに、たいして本好きでない人からしてみると、一言で表すならば「気が知れない」状態ではあるだろう。

 

読みたくて買ってきたはずの本なのに、いつまでたっても読む気配が無く、あまつさえその量がじわじわと増えていくのだ。

 

甘党がスイーツを大量に買いこんで、いつまでたっても食べずにためこんでいたとしたら、自分も同様に思うだろう。

 

その前に腐るし。

 

だが、本は腐らない。

 

食欲は生存に直結するあらがいがたい本能ではあるが、読書欲はそこまでではない。

 

その分、本の場合は、時間をかければかけるだけお楽しみが増す場合がある。

 

それは、読書という行為には想像力が不可欠だからだと私は思っている。

 

本を読みすすめる時、書かれている内容を追い続けるだけで終了してしまう、などということがあるだろうか。

 

書かれている内容に対し、専門書であれば自分なりの仮説をたてたり、小説であれば結末までのストーリーを組み立ててみたり、そこには大なり小なり想像力が働いているはずだ。

 

読んでいる最中でも行うことではあるが、積読家たる自分は読むまえから行っている。

 

小説のタイトルやカバーイラスト、あらすじから内容をイメージする。

 

それは「遠足は、前日の夜が一番楽しい」という感覚に似ている。

 

積読とは、セルフサービスのじらしプレイなのだ。

 

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積読家へ投げかけられる言葉として、一番多いと思われる「何故、読まないのか」という質問に対しては、私はいつも上記のように答えている。

 

じらしプレイという語感がまずければ、「熟成」と言い換えてもいい。

 

「食べごろ」ならぬ「読みごろ」のタイミングを待っているわけだ。

 

非難されがちなのは、その読みごろが年単位であることもざらなため、周囲の方がしびれをきらすことがままある、という点だろう。

 

私の周りだけかもしれないが、自分も含めて、積読家で片付けが得意なタイプは見たことが無い。

 

意味ある積読と、意味なく片付かないものたちが、周囲からはいっしょくたに見えるのだ。

 

つまり、周囲からは、積読もちらかしているようにしか見えないのである。

 

積読家であれば一度は言われたことがあるだろう、「いらないなら捨てなさい」や「読まないなら売りなさい」は、つまりはそういうことなのだ。

 

ここで「いつかは読むんだよ」とか「読まないなんて誰が決めた」とか言い返してしまうと摩擦が大きくなるのでおすすめしない。

 

思い返してみてほしい。

 

つけっぱなしのテレビの前で寝ている家族が、見てないんかい、と思ってチャンネルを変えたとたんに目を開け、「見てたのに」と怒るあの姿を。

 

周囲から見た積読家は、まさにあれなのだ。

 

これについてはおおいに反省するべきだと思うので、なるべく生活スペースは雑然とさせない努力が必要だ。

 

せめて、積読は1ヶ所に集中させるくらいのことはしておこう。

 

そうすれば、ここのスペースはいるものが置いてある、という主張ができる。

 

家族にその言い分が通用するかはお約束できないが。

 

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積読に、部屋が片付かない以外のデメリットがあるとすれば、「買ったことを忘れて同じ本を再度買ってしまう」ということだろう。

 

買っただけではなかなか記憶には定着しないからか、私もよく書店の棚の前で頭をかかえてしまう。

 

特にシリーズ化しているもので4巻目以降になるとまことに危うい。

 

こういう時にたいへん役に立つのが、いわゆる本棚アプリだ。

 

読んだ本だけでなく、これから読みたい本や購入済みだが積読になっている本など、カテゴリ分けして記録することができる。

 

アプリに登録することさえうっかり忘れなければ。

 

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たまに、積読家は計画性が無い、という意見を聞く。

 

おなかがすいてから食べ物を買うように、読みたくなったら本を買えばいい、ということらしい。

 

しかし、そもそも、本を購入するのに計画性なんて必要あるか。

 

そんなことを言う人は、積読家が後先考えずに本を買うからたまっていくのだ、と思っているのだろう。

 

だが、考えてほしい。

 

いくらおいしいスイーツを作る店があっても、客が買わずにいたら廃業してしまう。

 

本だってそうだ。

 

食品と違って腐らないから計画性なんて言葉が出てくるのだろうが、積読家にとっては、本とは、期間と数量限定の超レア商品なのだ。

 

人気が出れば追加で販売されるだろうが、その人気は誰が作る?

 

今、買わなければ、もう出会えないかもしれないものを購入するのに、計画性なんて考えている場合か!

 

…などと、思わず熱くなってしまったが、とどのつまり、後先考えずに購入している、という点には異論は無かったりする。

 

ただ、これはどんな商品にも言えることなので、「好き」はなるべく積極的にアピールしていきたい。

 

もちろん、家計を圧迫し過ぎない程度にではあるが。